2008年12月7日、国東半島へ向かったが、雪で入れず、杵築城下に予定を変更して訪ねたので、予備知識が無いまま、商人町を挟むように高台にある武家屋敷や坂道を訪ね、杵築城下町資料館にも立ち寄った。今回、9月27日から杵築市にある住吉浜リゾートパークで2日間の研修があり、町の中を再び歩く機会があった。

杵築はサンドイッチ型城下町昨年の写真を見ていると、資料館で2つのポスターを撮っていた。
1枚は、杵築の町並みを九州豊後高田の小京都とし、『日本唯一の!? サンドイッチ型城下町』と書いてあった。両側の高台から武士が商人の町を見下ろす特異な地形は全国でも珍しいだろう。小京都、坂道を着物を着て歩こう、市内のカフェや食堂が参加した丼やサンドイッチフェアなど。派遣切りで一躍全国に知名度を得たのは大きな財産となったのではないかと思う。



もう1枚は、『無迹庵と重光葵(まもる)〜故郷杵築の町から再出発〜』という企画展のポスター。資料館で重光葵の遺品などを初めてみたが、昨年が没後50周年にあたり、大分ではお盆特集が組まれていた。そのテレビで放映された内容を録画して、別府大学の辻野教授がわざわざDVDを送っていただいていたので、研修が終わって家に戻り改めて見直した。

重光葵の写真重光葵は豊後大野で生まれ、杵築中学を卒業しているが、1958年1月26日に69歳でなくなっている。外交官として第2次大戦の前後に欧米列国と互角に渡り合い、壮絶な、しかし、国のために生ききった人生だったのだろうと改めてその人となりを考えることが出来た。

以下はこの番組で辻野教授が語った内容の聞き留めたもの。
1911年に外交官試験を通り、1932年満州事変勃発したときは中国での特命全権大使だった。そして1932年4月29日上海の天長節記念祝典での爆破事件で片足をなくしているが、1年間の湯河原での療養生活を経て、また現役に復帰している。1936年に駐ソ大使、1938年駐英大使。チャーチル首相からも厚く信頼を得ている。

1943年に外務大臣に任命され、終戦時にはポツダム宣言を受諾し、ミズーリー号船上で降伏文書に署名している。戦後はA級戦犯として巣鴨刑務所に服役したが、刑期を終えて政治家の道に転進。1952年に改進党総裁になり、1954年鳩山一郎内閣の副総理兼外務大臣として日ソ国交回復。1956年日本が国連に加盟したが、日本を代表して国連総会で「我が国は欧米及びアジア両文明の産物であり、日本は東西の架け橋となり得るのであります」と演説をしている。一世一代の大舞台だったはず。
演説を終え帰国すると既に鳩山内閣は解散しており、1957年の正月は杵築で過ごしている。そのとき、「ふるさとの山に向かいて叫びたし わが父母の墓のある森」という歌を詠んでいる。

戦争や紛争が起こったら、出来るだけ目の小さいうちに収め、あとは外交交渉を重ねる、一貫して非戦を貫いた稀有の人だと思う。機会があれば、湯河原の重光葵記念館を訪ねてみたい。
戦後長く続いた自民政権から民主党に今年政権が移り、今回の国連での鳩山由紀夫首相が演説した内容でも重光葵の演説を紹介していたのを思い出す。
こんな外交官が今の外務省にいるかどうかは分からないが、使命感に燃える素晴らしい人物が大分県から輩出しているのが大変興味深い。