福岡に来て5年半になるが、北九州方面には行く機会が無いまま来たので、前から行きたかった芦屋町から海岸線を福岡に戻るルートを走って見た。芦屋町は北九州市に隣接し、現在はベッドタウン化している小さな町で、芦屋釜の里と芦屋海水浴場があるのを知っているくらいだった。

芦屋釜の里は駐車場から長屋門を見るだけでも魅力的だ。早速、資料館に入った。製作の過程や、茶釜、寺の鐘などが展示してある。芦屋釜は鎌倉時代末期から制作が始まり、室町時代には茶の湯釜の名器として一世を風靡した。芦屋での制作は江戸時代初期に途絶えたが、国指定重要文化財の茶の湯釜9点のうち、8点までを芦屋釜が占めている。現在、一旦途絶えた芦屋釜の製作技術を現代によみがえらせようという試みがこの里で行われている。

資料館には芦屋町の歴史関係の本が何冊があったのでパラパラと読んでいると興味を引かれた。
小説家・火野葦平の作品「燃える河」は明治中期の遠賀川流域の風俗や人物群を描いたとある。明治24年(1891年)の若松〜直方間の鉄道敷設以前の芦屋の賑わいや芦屋役者の境遇、タイトルとなった遠賀川と石炭の関わりなどを知ることが出来る。
江戸時代の芦屋は、唐津街道の宿場町の一つであり、米や干鰯、櫨蝋などに加え、1837年には石炭の集積地積出港としての役割を担った。更に芦屋の商人達の中には、伊万里焼を仕入れて、関西・関東から遠く蝦夷地まで売り歩く「旅行(たびゆき)商人」が多く出て「芦屋千軒」と呼ばれるほど賑わった。芦屋町の年間行事を書いたポスターで、11月(未定)に「江戸時代に全国に伊万里焼を届け、未踏の地なしと胸をはった芦屋の旅行商人の足跡をたどる」町外歴史研修・伊万里1泊2日の案内を見つけた。
また、江戸時代としては大変珍しい女性の旅日記が残されているという説明も興味があった。桑原久子(当時51歳)、小田宅子(当時53歳)たちは伊勢神宮、善光寺、日光東照宮と少しずつ足を伸ばしていった。道中、各地で観光や食事を楽しみ、名産品を買い求めている。何日かけて廻ったのか分からないが、旅先での宿泊料や土産代は現在の円換算で約126万円、どうやって工面しながら旅を続けたのか。久子は芦屋に戻り3年かけて「二荒詣日記」を著し、ペリーが浦賀に来航した1853年に63歳で亡くなっている。宅子も「東路日記」を記した。

資料館を出て、3000坪の日本庭園をゆっくり歩いた。茶室は貸し切りで見学が出来なかったが、良く手入れされた庭園に気持ちが洗われるようだ。
芦屋釜の里は駐車場から長屋門を見るだけでも魅力的だ。早速、資料館に入った。製作の過程や、茶釜、寺の鐘などが展示してある。芦屋釜は鎌倉時代末期から制作が始まり、室町時代には茶の湯釜の名器として一世を風靡した。芦屋での制作は江戸時代初期に途絶えたが、国指定重要文化財の茶の湯釜9点のうち、8点までを芦屋釜が占めている。現在、一旦途絶えた芦屋釜の製作技術を現代によみがえらせようという試みがこの里で行われている。
資料館には芦屋町の歴史関係の本が何冊があったのでパラパラと読んでいると興味を引かれた。
小説家・火野葦平の作品「燃える河」は明治中期の遠賀川流域の風俗や人物群を描いたとある。明治24年(1891年)の若松〜直方間の鉄道敷設以前の芦屋の賑わいや芦屋役者の境遇、タイトルとなった遠賀川と石炭の関わりなどを知ることが出来る。
江戸時代の芦屋は、唐津街道の宿場町の一つであり、米や干鰯、櫨蝋などに加え、1837年には石炭の集積地積出港としての役割を担った。更に芦屋の商人達の中には、伊万里焼を仕入れて、関西・関東から遠く蝦夷地まで売り歩く「旅行(たびゆき)商人」が多く出て「芦屋千軒」と呼ばれるほど賑わった。芦屋町の年間行事を書いたポスターで、11月(未定)に「江戸時代に全国に伊万里焼を届け、未踏の地なしと胸をはった芦屋の旅行商人の足跡をたどる」町外歴史研修・伊万里1泊2日の案内を見つけた。
また、江戸時代としては大変珍しい女性の旅日記が残されているという説明も興味があった。桑原久子(当時51歳)、小田宅子(当時53歳)たちは伊勢神宮、善光寺、日光東照宮と少しずつ足を伸ばしていった。道中、各地で観光や食事を楽しみ、名産品を買い求めている。何日かけて廻ったのか分からないが、旅先での宿泊料や土産代は現在の円換算で約126万円、どうやって工面しながら旅を続けたのか。久子は芦屋に戻り3年かけて「二荒詣日記」を著し、ペリーが浦賀に来航した1853年に63歳で亡くなっている。宅子も「東路日記」を記した。
資料館を出て、3000坪の日本庭園をゆっくり歩いた。茶室は貸し切りで見学が出来なかったが、良く手入れされた庭園に気持ちが洗われるようだ。
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