9月19日、図らずも東京での滞在日が公開初日というよき日に恵まれて、「田中一村展」を見ることができた。

奄美に行きたいと思いながら行けていなかった。
来年は奄美にも行くぞーと思った次第。
田中一村(たなか・いっそん/明治41年[1908]– 昭和52年[1977])

栃木町(現・栃木市)に生まれる。本名は孝。大正3年(1914)、東京に転居。翌年、彫刻師の父から米邨(べいそん)の画号を与えられる。幼年期から卓越した画才を示し、神童と称される。南画を得意とした。大正15年(1926)、東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科に入学するも、2ヶ月で退学。「家事都合」とされるが詳細は不明(同級生には後の日本画壇を代表する東山魁夷や橋本明治らがいた)。その後、3人の弟と両親を立て続けに亡くす。昭和13 年(1938)、姉、妹、祖母と千葉に転居。農業をしながら制作に従事。
昭和22年(1947)、柳一村と画号を改め、《白い花》が青龍展に入選。翌年、田中一村の名で同展に入選するも、自信作が落選したため辞退。その後、日展、院展と相次いで落選。わずかな支援者を頼りの制作が続くが、昭和33年(1958)、50歳にして単身奄美大島へ移住。紬織の染色工として働き、生活費を貯めては、奄美の自然を主題とした絵に専念する日々を送る。昭和52年(1977)、夕食の支度中、心不全により亡くなった。享年69歳。
昭和54年(1979)、有志により奄美で遺作展が開催され、異例の3千人もの動員を記録。昭和59 年(1984)、NHK「日曜美術館」の特集放映で全国的に注目を集め、その後も展覧会の開催や評伝刊行など、顕彰の動きは止まず、平成13 年(2001)、奄美に田中一村記念美術館が設立された。